髙橋耕平
Takahashi Kohei
1977 京都府生まれ
Born in Kyoto
2002 京都精華大学大学院修士課程 芸術研究科修了
MFA Kyoto seika university, Kyoto
2007 WORM HOLE episode5, Takuma ISHIKAWA+Kohei TAKAHASHI magical artroom(東京)
WORM HOLE episode5, Takuma ISHIKAWA+Kohei TAKAHASHI magical artroom, Tokyo
2008 個展「TAKE – A little action and small accident」 京都造形芸術大学 Gallery RAKU(京都)
Solo Exhibition「TAKE-A little action and small accident」 Kyoto university of art and design-Gallery RAKU, Kyoto
2009 自宅から美術館へ 田中恒子コレクション 和歌山県立近代美術館(和歌山)
From Home to the Museum : Tanaka Tsuneko Collection The Museum of Modern Art, Wakayama, Wakayama
2012 消息-Presage 鈴木崇+高橋耕平 ハイネストビル(京都)
Shosoku-Presage Takashi SUZUKI+Kohei TAKAHASHI HI-NEST BLDG., Kyoto
加納俊輔・髙橋耕平展「パズルと反芻」 island MEDIUM, NADiff window gallery, 実家JIKKA(東京)
Shunsuke KANO・Kohei TAKAHASHI exhibition “Puzzle and Rumination” island MEDIUM, NADiff window gallery, JIKKA, Tokyo
かげうつし – 写映|遷移|伝染 京都市立芸術大学ギャラリー@kcua1.2(京都)
Kageutsushi- reflection, transition, Infection – Kyoto City University of Arts Art Gallery @KCUA1.2, Kyoto
2013 コレクション展Ⅱ 特集 新収蔵品紹介『信濃橋画廊コレクション』を中心に 兵庫県立美術館(兵庫)
Shinanobashi-collection Hyogo Prefectural museum of art, Hyogo
個展「HARADA-san」 Gallery PARC(京都)
Solo Exhibition「HARADA-san」 Gallery PARC, Kyoto
2014 Imitator 2 MART(ダブリン/アイルランド)
Imitator 2 MART, Dublin, Ireland
個展「史と詩と私と」 京都芸術センター ギャラリー(京都)
Solo Exhibition「Shi to Shi to Shi to」 Kyoto Art Center, Kyoto
2015 ほんとの うえの ツクリゴト 旧本多忠次邸(愛知)
Play on the facts Old Tadatsugu-Honda house, Aichi
HOME PARTY 03 – 虹の美術館 亀岡市文化資料館, みずのき美術館(京都)
HOME PARTY 03-MUSEUM OF THE RAINBOW Kameoka Municipal Museum of Culture, Mizunoki Miseum of Art,Kyoto
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭 特別連携企画「still moving」 元崇仁小学校(京都)
PARASOPHIA /Special plan exhibition of the 6th anniversary of the Kyoto City University of Arts Art gallery @KCUA「still moving」
Former Suujin Elementary School, Kyoto
推薦文
推薦者:三脇康生(精神医学・美術批評)
髙橋は《史と詩と私と》という作品で、公民館のような、廃校になった小学校の映像を用いている。また展覧会「ほんとの うえの ツクリゴト」は、愛知県岡崎に移築された旧本多忠次邸展示である。この際、関係者への取材した話を髙橋自らが語り直している。髙橋は「地域」に取材している。
そもそも、「アート」と「地域」とはどのような関係にあるのだろうか。「アート」が「地域」を開くと期待されて「地域アート」が、昨今、日本でもさかんであるが、その時の「アート」は、はたして閉じているのか、開かれているのか。以下のように、心配になる。
1. 「アート」が硬いままだと、「地域」は「アート」に利用される。
2. 「アート」を開きすぎると、「地域」に溶け込みすぎる。
この際の「アート」を、以下のように自分が想定していることに気づく。
1. 「アート」が物質化している=もう外在化されて決まった存在であるのか。
2. 「アート」が記憶化している=日々さまざまに参画可能であり書き換え可能である。
実際に、「地域芸術祭」を応援する際に、上の両方の立場のどちらを支援しているのか分からなくなる。我々は、だから曖昧な態度になるのではないだろうか。祭が行われていないような普段の日常に潜む姿からの刺激により、もう既に自足した様子を見せていたかもしれない「地域」の側も、自然な違和感を持つ。それで初めて、アート/地域の(一応の)境界線に作品自体がなっていて、そのことに作品自体がむず痒くなってくる時、次の更なる刺激が生まれると予想できる。しかし、このようなことは相当の運が絡んでいるので、簡単ではない。
髙橋は、以下の意味で稀有の作家となり得る。公民館のような廃校になった小学校や、移住させられたが元々そこにあったかのような大きな邸と「アート」を露骨に平和に繋ぐのではなく、「アート」を学校や邸の飾りにしてしまうのでなく、「アート」で学校や邸を飾るのでもない。アート/地域の分離へ、髙橋は自分の身体を置き、「アート」にしてくる。アート/地域を激しくぶつけて揺さぶる。作品を見るものの中で、アート/地域が、粗雑に分離して、ギシギシ衝突することを目論んでいる。それが髙橋の作品の機能である。