大島成己

OSHIMA Naruki

1963 大阪府生まれ
Born in Osaka

1989 つかしんアニュアル「浮遊体—イマージュ空感」 西武美術館つかしんホール(兵庫)
Tsukashin Annual “Fuyutai” Seibu Art Museum Tsukashin hall, Hyogo

特別展「版から/版へ─京都1989」 京都市美術館
“Intersection of Printing” Kyoto Municipal Museum of Art

1990 シガアニュアル ’90「写真による現代版画」 滋賀県立近代美術館
Shiga Annual ’90 “Contemporary Prints; the Application of photograph” The Museum of Modern Art, Shiga

1991 現代美術 ’91「素材はいろいろ」 徳島県立近代美術館
“Art Scene ’91 Each Material Each Expression” The Tokushima Modern Art Museum

1992 アートナウ ’92「12人の実践/90年代美術の新地平」 兵庫県立近代美術館
Art Now ’92 “12 Artists New Horizon in ’90s” The Hyogo prefectural Museum of Modern Art

1994 「光と影─うつろいの詩学」 広島市現代美術館
“Light & Shadow-the sense of ephemerality” Hiroshima City Museum of Contemporary Art

1997 芸術祭典─京─「思い出のあした」 京都市美術館
“Future Recollection” Kyoto Municipal Museum of Art

2003 第一回ロッテルダム国際建築ビエンナーレ(ロッテルダム市/オランダ)
International Architecture Biennale Rotterdam Rotterdam, The Netherlands

2004 ヴェネチアビエンナーレ 第9回国際建築展 イタリア館、アルセナール両会場(ヴェネチア/イタリア)
The 9th Venice Biennale, photography section Italian Pavilion & Arsenal, Venice, Italy

2007 「Appearance:写真表現と現代空間の深層」 代官山ヒルサイドテラス・ヒルサイドフォーラム(東京)
“Appearance: Urban space interpreted through Photography” Hillside Terrace & Forum, Tokyo

2008 「Paris Photo 2008-ステーツメント部門」 カローセル・デュ・ルーブル(パリ/フランス)
Paris Photo2008, statements section CARROUSEL DU LOUVRE, Paris, France

2010 京都市立芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了 博士(美術)取得
Ph.D. Fine Art in Kyoto City University of Arts

推薦文

推薦者:三脇康生(批評家・仁愛大学教授)

大島の作品は、ものを視覚認知するプロセスを安定化させ見える像を描いたりしないように努力してきた。ものの像が安定化する前の、本当は私たちには、認知的にはっきり見えないようなプロセスがあることを、作品の中に仕組んできた。それでも、やはり作品がある最終形態を取るのは事実だから、見えるものをぼやかさず、何の像なのかは分からせた後に、その作品化のされかたに、不自然さを感じさせることが重要な方向になったと考えられる。そのための実験が様々続けられ、なおかつそれが実験の域を超え、あるクオリティの作品にまでいたるには、なにを写すかという判断力がまずは大きく問われている。この点、大島はガラスを入れ込んだビルの建築の生む像の複層性や、焦点距離の違う部分で成り立った木々などを撮り、まずは、作品の方法論と作品の最低限のクオリティを守ることを同時に行い得ているだろう。さらに大島は、色が形態の上に色塗のように塗られていることに我慢がならないようである。色は、形態の属性になり切らないで存在する。たまたまそれがべったり重なっているかのように、脳が情報を処理するだけである。つまり、認知の安定化するまえのプロセスをできるだけ、見るものに刺激させるような作品を作り続けている。形態に上塗りされたのではない色彩は視覚的でなく、触覚的であるという意味でhaptiqueという形容詞が用いられている。大きく認知を揺さぶるような仕組みは、遊園地やゲームにでも利用される嫌いがあるが、このような微細なブレ(制度のまたぎ超しとも言える)は、それこそ、現代の遊びのニッチである可能性がある。そこを、あきずに耕すことは、我々に、世界の豊かさを教え、我々に、自我の小ささを教えるだろう。それをちゃんと「ユーモア」として受け入れる人、業界、社会、国が生まれることを期待せずにはいられない。